ザンジバルと古都・ストーンタウンの歴史~スパイス産業と奴隷貿易による光と影

2023.05.01
ANZA編集部
ザンジバルと古都・ストーンタウンの歴史~スパイス産業と奴隷貿易による光と影

ザンジバルとストーンタウン

ザンジバルという地名をご存じでしょうか。東アフリカはタンザニアの対岸に位置する島々をまとめてザンジバル(諸島)と呼びます。正式には「タンザニア連合共和国」の一部なのですが、タンザニアから強力な自治権が認められ、独自の大統領もいます。

ザンジバルの中心部を成すのが、ストーンタウンと呼ばれる街です。ストーンタウンは、2000年に世界遺産に登録され、様々な文化が入り混じった都市として知られています。その中には、アラビア・インド・ヨーロッパなど、建築様式が混在した、不思議で美しい建物が並びます。

【写真1:ストーンタウン最古の要塞、オールド・フォート。後述のオマーン人によって建設された】

その一方でこの街は、かつては奴隷交易の中心地でした。奴隷市場のあったアングリカン大聖堂では、当時の凄惨な奴隷制度の実態を石像などで示しており、今なお、奴隷交易の遺構を見ることができます。

ストーンタウンは、光と影を背負った場所だといえるでしょう。

では、この不思議な街はどうやってできたのでしょうか?その背景は、ザンジバル諸島の辿った歴史にあります。

この記事では、ザンジバルの近代までの歴史を簡単に紹介して、ストーンタウンの来歴に迫ってみます。

ザンジバルの基本情報

ザンジバルは、タンザニアの真向かいに浮かぶ島々の総称です。最も大きいのがウグンジャ島で、この島だけを指して「ザンジバル」という場合もあります。そのほか、ペンパ島やマフィア島などの島々が、ザンジバルに属します。

 

【図1:ザンジバルの周辺地図。左手の大陸がタンザニア、右手がザンジバル諸島】

 

ストーンタウン前夜

ストーンタウンの景観の背景には、ザンジバルが辿った歴史があります。

ザンジバルは、古くからインド洋を介した交易で栄えていました。その過程で、インド洋交易の担い手であったイスラーム商人たちがこの地に移り住みました。

このインド洋交易は、西はアフリカや中東から、東は中国までを繋ぐという広大なものでした。そのため、インド洋交易の利益を狙って、様々な勢力が進出してきました。

つまりザンジバルは、インド洋交易の寄港地として、古くからザンジバル生まれではない「よそ者」が多く訪れる場所でした多様なよそ者が住み着くことで、ザンジバルは様々な文化が入り混じった場所になったのです

その一つが、後にストーンタウンを建設するオマーン王国です。オマーンは、アラビア半島に位置するアラブ系の国家です。オマーンは、当時ザンジバルや東アフリカ沿岸の覇権を握っていたポルトガルを追い出し、この地域を支配しました。

そして、1804年に即位したサイイド・サイード王は、なんと、ザンジバルに首都を移すという決断をしました。オマーン国内での政争が背景だとされますが、ザンジバルにはすでにイスラーム系の移住者が多くいたことも理由にあげられます。

このサイード王が建設した、オマーンの新たな首都こそが、ストーンタウンだったのです。

「中継地」ストーンタウンの繁栄とその影

その後ストーンタウンは、インド洋交易の窓口として大きな繁栄を遂げました。交易には「商人王」と称されたサイード王自らも政務の傍ら参加しました。そのほか、インド系の商人やイギリス・フランス・アメリカの商人たちといった様々な顔ぶれが揃いました。

ザンジバルはインド洋交易の「中継地」でした。それというのも、ザンジバルの産品だけではなく、それ以外の地域の商品まで幅広く取引されていたからです。例えば、アメリカなどからは綿製品を輸入。その後アフリカ内陸部へとキャラバンを送り込み、この綿製品とアフリカ内陸部で獲得される象牙や奴隷とを取引。そしてキャラバンがザンジバルに持ち帰った象牙や奴隷は世界各地で交易、といった形で拡大していきました。

ザンジバルは多様な産品が行きかう貿易ネットワークの中継地として栄えたわけです。

【図2:ストーンタウン交易の略図】

この交易について何より特筆すべきは、この時期に最盛期を迎えた奴隷貿易でしょう。ストーンタウンにはアフリカの内陸部から拉致されてきた奴隷が送り込まれ、そこから世界各地へ取引されていきました。

その背景には労働力への需要の高まりがありました。当時のフランス領植民地など欧州諸国におけるプランテーション経営のため多くの奴隷が必要とされており、その流れは世界中に広がっていきました。

奴隷とストーンタウン

そして、オマーン王国にとって、奴隷は、交易の要である以上に、国家の運営に不可欠な存在でした。アフリカ内部から「輸入」された奴隷は、世界各地に「輸出」されるだけでなく、ザンジバルの内部でも使役されました。その数は、10万~14万人とされます。14万人の奴隷がいたとすると、当時のザンジバルの全人口の67%にあたります。

その多くは、クローヴ(丁字)のプランテーションで使役されました。1818年ごろザンジバルで生産されたクローヴなどのスパイスは、サイード王やアラブ系の商人たちの指揮の下で栽培され、ザンジバルの一大特産品となっていました。このクローヴ生産を支える労働力こそ、アフリカ内陸部から連れてこられた奴隷だったのです。

【写真2:クローヴの実。乾燥させ調味料として活用される】

尚、現在、スパイスのプランテーションは観光資源にもなっています。農園各所ではスパイスツアーが開催され、ガイドが農園内を案内しながら様々なスパイスの香りや味を体験でき、お土産も購入できます。豊かなスパイスを満喫しつつも、背景には奴隷貿易もあると考えると、まさに光と影を背負った地域だと実感します。

まとめ

ストーンタウンは、オマーンのサイイド・サイード王によって築かれ、インド洋を通じた貿易で多大な利益を上げました。しかしその背景には、奴隷貿易と奴隷制がありました。ストーンタウンはそうした暗い歴史も負っているのです。

奴隷貿易と奴隷制は、イギリスの介入によって、19世紀の後半に撤廃されました。その後ザンジバルは、イギリスの支配下に入ることになります。

もちろん、解放された奴隷が、いきなり裕福な市民になることは容易ではありません。奴隷制が刻印した「支配者」「奴隷」というカテゴリーは、その後のザンジバルの歴史に影を落とすことになります。そして現在は、そうした歴史を背景に持つ世界遺産を誇る観光名所としてその名を広げています。

このザンジバルとストーンタウンの「その後」については、またの機会にご紹介したいと思います。

■参考文献
朝田郁(2017)『海をわたるアラブ -東アフリカ・ザンジバルを目指したハドラミー移民の旅-』松香堂書店
富永智津子(2001)『ザンジバルの笛』未来社
(2008)『スワヒリ都市の盛衰』山川出版社
根本利通(2020)『スワヒリ世界を作った「海の市民たち」』昭和堂
東西文化に彩られたタンザニアの世界遺産!ザンジバル島のストーン・タウン – skyticket 観光ガイド(最終閲覧:2023年4月16日)
https://whc.unesco.org/en/list/173 (最終閲覧:2023年4月22日)

 

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