タンザニア・ザンジバルの島に住む人々とは…?―独自の文化を発展させたザンジバルの現代史と「民族」の多様性

2023.08.08
ANZA編集部
タンザニア・ザンジバルの島に住む人々とは…?―独自の文化を発展させたザンジバルの現代史と「民族」の多様性

以前の「ザンジバルと古都・ストーンタウンの歴史~スパイス産業と奴隷貿易による光と影」の記事でご紹介したように、東アフリカのザンジバルという島はタンザニアに属していますが、様々な文化の入り混じった多様性溢れる地域です。その背景には、古くからイスラーム商人が寄港したり移住していたという歴史的背景があります。

そんなザンジバルに住む人々は、様々なルーツを持っています。その多くはアラブ系やアフリカ系とされますが、インド系やコモロ諸島に出自を持つ人もいます。

しかし実は、「アラブ」や「アフリカ」といった単位自体、単純なものではありません。むしろ、アラブ系やアフリカ系の人々の中には、多様なルーツを持つ人々が混在しており、一括りにアラブ、アフリカ、とは呼べないほどなのです。

この記事では、ザンジバルの「民族」構成を紹介することを通じて、ザンジバルの多様さの一端をご紹介したいと思います。

イギリス支配下での「民族統計」

オマーン王国(アラブ系)の支配下にあったザンジバルは、1890年にイギリス領となります。ザンジバルの「民族」がはっきりと分類されたのはこの時期でした。

当時から、イスラム圏とアフリカ大陸の貿易の中継地であったザンジバルには様々なルーツを持つ人々が住んでいました。そこでイギリスの植民地行政は、人々に自分の民族を申告させて民族のデータを作成し、そのデータをもとに、ヨーロッパ系、アジア系、アラブ系、アフリカ系が大別されました。そのことで、ヨーロッパ系を頂点とし、アフリカ系を最下層とするヒエラルキーが恣意的に作り出されたのです。当時ザンジバルの支配層だったために、アラブ系は、経済的・政治的に優遇され、アフリカ系よりも優位に置かれました(図1)。

図1:民族ヒエラルキー略図

ザンジバル革命

長らくイギリスの支配下にあったザンジバルは1963年に独立し、アラブ系の政党が政権を握りました。しかし独立からわずか一か月で、「ザンジバル革命」が勃発します。アフリカ系の人々が、アラブ人たちの政権に対抗して、革命を起こしたとされます。この革命は悲惨なもので、1万人もの犠牲者を出しました。その多くは革命勢力に攻撃されたアラブ系の人々でした。

革命後のザンジバルは、1964年に近隣の、現在のタンザニア連合共和国が成立します。ただし、ザンジバルは強い自治権を認められ、独自の政党や大統領を有します。この時期には、アフリカ系の政党による過酷な独裁体制が敷かれ、アラブ系の人々に対する人種主義的なも取られました。

アラブVSアフリカ…?

では、アラブ系とアフリカ系との対立は、どのようにして生じたのでしょうか。

イギリスの支配以前、ザンジバルを支配したのは、アラブ系の国家・オマーン王国でした。その際、アラブ系の支配者は、アフリカ系の人々を奴隷として使役していました。両者の対立は、こうした歴史に根を下ろしているかもしれません。またイギリスの支配下で、アラブ系とアフリカ系の人々の間に、恣意的で明確なヒエラルキーが作られたことも要因だといえるでしょう。

しかし、「アラブ」も「アフリカ」も、一枚岩ではありませんでした。その中には、多様なアイデンティティが混在していたのです。

「アラブ」というアイデンティティ

一言にアラブといっても、その内実は様々でした。「アラブ」とされた人々のなかには、大きく次の三つのグループがありました(表1)。表のうち、特に「生業など」に注目してください。

表1:アラブ系の民族構成
名称 移住の時期 生業など
オマーン・アラブ オマーン王国治世下(18世紀~) プランテーション経営→奴隷を使役
マンガ(スワヒリ語で「北の意」) イギリス治世下 商店経営など(小規模)
ハドラマウト・アラブ 古くから かつては知識人層が主→イギリス治世下では肉体労働者が多かった

オマーン・アラブはプランテーション経営に携わり、裕福な傾向がありました。しかし、他の二者は、彼らほど裕福ではありませんでした。つまり、アラブ系の人たちの中にも、経済・社会的な違いがあったのです

また、オマーン・アラブは、オマーン王国の支配層が多かったともいわれます。彼らと、新参者であるマンガとは、時に紛争に発展することもあったそうです。

ザンジバル革命では、このすべてが「アラブ」とされ、攻撃されました。しかし、ザンジバルを支配し、アフリカ系の奴隷を使役していたのは、主として「オマーン・アラブ」の人々でした。

「アフリカ」というアイデンティティ

「アフリカ」もまた、一枚岩なアイデンティティではありませんでした。

当時のザンジバルには、古くからザンジバルに住んでいた人や、解放奴隷とその子弟、そしてアフリカ内陸部からの出稼ぎ移民など、様々な「アフリカ」系の人々がいました。

イギリスの調査で申告された民族名は、次のようなものでした。(表2)

表2:自己申告された「民族」名
シラズィ イランのシーラーズィから、9~11世紀に移住したとされる。古くからザンジバルに住む。
スワヒリ アラブとアフリカの混血を指すことが多い。

※元は民族名ではなく、文化や地域を指す。

その他 出身地が民族名として扱われる。

しかし彼らは、必ずしも正直に民族名を申告したわけではなかったようです

例えば自分が奴隷出身だと宣告すると、差別的な扱いをされかねません。そのため、解放奴隷の人々が、自分の出自を隠すために、「スワヒリ人」と名乗ることもあったのです。

そのため、実際の出自と、申告された「民族」の間には、ズレがあったわけです。

逆に時代を下ると、今度は「スワヒリ」が奴隷を象徴する言葉と受け取られるようになりました。すると今度は、「スワヒリ」から「シラズィ」に鞍替えする人々も現れます。

アフリカ系とされた人々は、アイデンティティを戦略的に選ぶことで、「奴隷」などのスティグマ(差別、偏見などネガティブな印象)を逃れようとしてきたといえるでしょう。

まとめ

ザンジバルの「アラブ」も「アフリカ」も、実は十把一絡げにはできません。それぞれのカテゴリーの中にも、多様なアイデンティティが混在しているのです。また、解放奴隷たちが、自分の民族の名乗りを変えたように、「民族」の内実は、社会のなかで変化していきました。

アラブVSアフリカの民族紛争に見える前述のザンジバル革命についても、事態は複雑です。革命の担い手は、出稼ぎなどに来ていた島外出身者が主だったとされます。この革命を主導したのはジョン・オケロという人物でしたが、彼さえケニア出身でした。そして被害者の多くは、オマーン王国の支配にはかかわりのない「アラブ」だったのです。

「民族」という言葉には、昔から続く、伝統的で不変のもの、という印象があるかもしれません。しかし、ザンジバルの「民族」が辿った現代史から見えてくるのは、そうした「民族」への先入見とは違う光景かと思われます。ここでいう「民族」は、時に社会の中で変化し、時に恣意的に選択されつつ、現代史の中で作り上げられてきたものだといえるでしょう。

【参考文献】

朝田郁 2017 『海をわたるアラブ―東アフリカ・ザンジバルを目指したハドラミー移民の旅    -』松香堂書店。

大川真由子 2008 「ザンジバル、オマーンにおけるアラブ性の意味―アフリカ系オマーン人のエスニシティをめぐる一考察」『日本中東学会年報』24巻1号、75‐101頁。

富永智津子 2001 『ザンジバルの笛』未来社。

富永智津子 2008 『スワヒリ都市の盛衰』山川出版社。

根本利通 2020 『スワヒリ世界を作った「海の市民たち」』昭和堂。

 

 

 

この記事が参考になった
アフリカ進出をご検討中の企業様は、
ぜひANZAまでお問い合わせください。
ANZAは日本企業のアフリカ進出を支援する
AAICが運営しております。

AAICのこれまでのアフリカでのプロジェクトは
こちらからご覧いただけます。

Pick Up

よく読まれている記事

月間
年間

まだデータがありません。

ANZAメールマガシンへのご登録はこちら

    Follow Us