【写真1:伝統的な帆船のダウ船。ダウ船に乗って、多くの商人が東アフリカ沿岸部に訪れた】
前回の記事では、「スワヒリ」が広い意味を含んでいることをご紹介しました。
スワヒリとは、ごく簡単に説明すると、東アフリカ沿岸部とそこに住む人々・文化・言語などを指します。元々は、この地域に住む人々を指す言葉でした。しかしその後、かれらが独自の言語や習俗を持つようになり、スワヒリは次第に文化や言語を指す言葉になっていきました。
今回の記事では、「スワヒリ」の歴史について、さらには人々・文化・言語の歴史をたどることを通じてそうしたスワヒリの多様さに迫ります。
スワヒリという呼称が現れる以前
世界史の教科書にはあまり登場しないこの東アフリカの沿岸地域で、スワヒリ文化は展開していきました。今では、東アフリカ沿岸部自体がスワヒリ地域とも呼ばれています。
この地域は、実は極めて古くから、他の地域との交流がありました。
東アフリカの沿岸から広がるが面するインド洋は、古くから季節風を利用した交易の舞台でした。商人たちは、季節風を利用してダウ船と呼ばれる帆船(上段写真1)を操り、アラビア半島から東アフリカへ訪れていたのです(図1)
この地域が初めて歴史資料に登場するのは、紀元一世紀ごろのことです。ギリシア人の航海記、『エリュトラー海案内記』に、この地域の記述が認められます。
東アフリカ沿岸部は、古くから中東地域との交流があり、当時からすでに、アラブ系の商人たちがこの地に寄港していたことが分かります。(ちなみに、この時期には、遠く東南アジアとの交流もあったことも確認されています。現在までアフリカの主食であるバナナ、タロイモなどは、東南アジアからもたらされました)
こうした交流を経て、やがてアラブ系の商人たちは、東アフリカ沿岸部を「スワヒリ」と呼ぶようになっていきました。
【図1:アラビア半島やアフリカ沿岸を巡る、インド洋交易】
アラビア半島からの植民
紀元7世紀以降になると、アラビア半島からの移民が、この地域に移り住むようになります。その背景には、イスラームの勢力争いがありました。
7世紀にはじまったイスラームは、創始者ムハンマドの下、政治的にも一大勢力を築きました。ムハンマドが亡くなると、その後継者争いが勃発し、そこから逃れるかたちで、アラブ系の人々がスワヒリ地域に移り住んだといわれます。
スワヒリ形成期
彼らは図2の矢印で示した地域に住み着き、都市を作り上げていきました。例えば現ケニアのモンバサ、キルワ、パテ島やラム島には都市が成立し、アラブ系の王朝も存在しました。
その過程で、現住していたアフリカ系の人々との混交が進み、互いの文化や風土が受け入れられるようになりました。
こうして、文化的・社会的にアラブ系・アフリカ系の出自を持つ人々が混交していく中で、スワヒリ文化が生まれたようです。イスラームの文化を受け入れつつも、それを独自に変容させたのが、スワヒリ文化だと言えるでしょう。
【図2:東アフリカ沿岸部のイメージ】
スワヒリ文化の成立
モンバサやキルワといった、東アフリカの諸都市は、15世紀ごろに最盛期を迎えます。15世紀、イブン=バットゥータによって書かれた『三大陸周遊記』には、すでに「スワヒリ」という単語が登場するようです。ただし、これはアラブ人からの呼び名であり、自称ではありませんでした。
またこの時に、スワヒリ語の原型も成立したといわれます。もともとこの地に住んでいたアフリカ系の人々の言語に、アラビア語系の語彙が吸収されることで、スワヒリ語ができたのだそうです(スワヒリ語は、アフリカによくみられる言語体系の「バントゥー諸語」に属します)
更にこの時期には、大航海時代真盛りのポルトガルが襲来します。インド洋の交易に目を付けたポルトガルは、スワヒリ都市を次々と支配下に置き、この地域の覇権を握りました。
しかしこの結果、アラビア半島との交流が疎遠になったことで、スワヒリ文化が独自性を持つようになった、とも言われます。
スワヒリ拡大期
ここまでの時期には、スワヒリが指す地域は、主に東アフリカ沿岸地域を中心としたものでした。しかし、19世紀以降、アラブ系国家のオマーンがこの地域を支配するようになってからは、内陸部にも拡大していきます。
オマーンの治世下で、アフリカ内陸部との交易が盛んになりました。当時の重要な交易品であった奴隷や象牙を求めて、多くのキャラバンが、内陸へと送り込まれました。その結果、スワヒリに由来を持つ文化やスワヒリ語が、アフリカ内陸部にももたらされたのです。
東アフリカ沿岸部では、特にザンジバルの支配者であったオマーン王国が、植民地統治に利用されました。オマーン王国はアラブ系の国家でしたが、ザンジバルにはスワヒリ語を話す人々も多く暮らしていました。
スワヒリの拡大には、ヨーロッパ諸国の進出も影響したようです。19世紀の末には、ポルトガルに代わってイギリスが東アフリカ沿岸部を支配するようになりました。イギリスはアフリカ全体の植民地統治に、現地の有力者、有力な民族集団などを利用しました。
イギリスによる支配の拡がりとともに、オマーン王国の影響力も、東アフリカのさらに内陸部にまで拡大していきました。その中で、ザンジバルに住んでいたスワヒリ文化の担い手たちが、アフリカ内陸に出入りするようになります。その結果、スワヒリ語やスワヒリ文化がアフリカ内陸部にも伝わっていきました。現在では、沿岸だけではなく、タンザニアの内陸部や、コンゴ民主共和国の東部に至るまで、スワヒリ語をはじめとした文化がみられます。
【図3:スワヒリ史略図】
まとめ
この記事では、「スワヒリ」と呼ばれる地域・文化の歴史をご紹介しました。
古くからアラビアとの交流があった東アフリカ沿岸部には、7世紀以降、アラブ系の移民が多く移り住んできました。その中で、在来の文化とアラブ・イスラーム的な文化が混合して、スワヒリ文化やスワヒリ語が生まれました。ポルトガルの支配により他地域と切り離されたことで独自性が発達したスワヒリ文化は、19世紀以降オマーンやイギリスの支配が影響で、その言語や文化が、アフリカ内陸部にも拡大し、今日に至ります。
【参考文献】
沓掛沙弥香 2021 「マグフリ政権下のタンザニアのスワヒリ語振興政策―「虐げられた人々」の言語としてスワヒリ語を構築するディスコース―」『アフリカレポート』59: 133‐146
髙村美也子 2023「スワヒリ(Swahili)形成過程と現在のスワヒリ」『人類学研究所研究論集』12:127‐140
富永智津子 2001 『ザンジバルの笛』未来社
富永智津子 2008 『スワヒリ都市の盛衰』山川出版社
日野舜也 1980 「東アフリカにおけるスワヒリ認識の地域的構造」富川盛道編『アフリカ社会の形成と展開』同朋舎出版、173‐225頁
宮本正興 2009 『スワヒリ文学の風土 東アフリカ海岸地方の言語文化誌』第三書館
宮本正興 2019 『スワヒリ詩の伝統とリヨンゴの歌』第三書館
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